沖縄の軍用地の歴史(前編) | 軍用地投資ブログ

2020年11月20日

沖縄の軍用地について徹底解説。今回は軍用地の歴史について、分かりやすくご説明いたします。

 

 目次

 - はじめに

 - 太平洋戦争と土地の接収

 - 戦後の地籍認定のむずかしさ

 - はじめての軍用地料の支払い

 - 銃剣とブルドーザー

 - 賃借権の既成事実化

 

はじめに

 

皆さま、こんにちは。開南コーポレーション代表の新垣です。

今回のブログでは、あらためて軍用地の歴史について、ひも解いていきたいと思います。というのも、ここ最近、20~30代の若い投資家の方や県外在住のお客様が増えてきており、軍用地売買のノウハウをお伝えするだけでなく、その歴史についてもきちんとご紹介していく必要があると感じたからです。

敗戦後、県内各所で米軍による強制接収が進められていくなか、沖縄県民がどのように土地の権利を回復していったのか、その折々の時代背景とともに分かりやすく解説していければと思います。

 

太平洋戦争と土地の接収

 

軍用地の歴史を語るうえで、その出発点となるのは太平洋戦争です。

戦前、旧日本軍は石垣島や宮古島を含む県内各地の土地を接収し、計15施設にも上る飛行場を建設しました。こうした基地の内いくつかは、戦時中そのまま米軍に占拠され、米軍側の軍事施設として接収・造成・拡大されることになりました。なかには那覇空港のように、その後再び、自衛隊基地として利用されている場所もあります。

 

旧日本軍の施設を米軍が接収した主な例


 

- 旧日本陸軍・伊江島飛行場 → 伊江島補助飛行場(現存)
- 旧日本陸軍・沖縄北飛行場 → 読谷補助飛行場(全面返還)
- 旧日本陸軍・沖縄中飛行場 → 嘉手納空軍基地(現存)
- 旧日本陸軍・沖縄南飛行場 → 牧港補給地区(現存)
- 旧日本陸軍・沖縄東飛行場 → 与那原飛行場(全面返還)
- 旧日本海軍・小禄飛行場 → 那覇空港・航空自衛隊那覇基地(現存)

 

嘉手納飛行場にて、B29の滑走路を建設する工兵航空大隊隊員。

嘉手納飛行場にて、B29の滑走路を建設する様子(沖縄県公文書館所蔵)。

 

さらに米軍は、戦中から戦後しばらくの間、島内の住民を収容所に強制的に隔離。主のいなくなった土地を有無を言わさず接収していきました。昨今、基地問題でしばしばメディアに取り上げられる「普天間基地(普天間飛行場)」も、まさにこの時期に接収・造成された基地のひとつです。

 

普天間飛行場建設の様子。ブルドーザーで地ならしが行われました。

1945年の普天間飛行場建設の様子(沖縄県公文書館所蔵)。

 

その後、中華人民共和国が成立した翌年の1950年2月には、GHQが「沖縄に恒久的基地建設をはじめる」との声明を発表。同年に朝鮮戦争が勃発すると、沖縄の軍事的価値はますます重視されるようになりました。

こうした流れを受けて米軍は、1953年、地主の同意なしに土地を接収できるとする布令109号「土地収用令」を公布。真和志村(現:那覇市)銘苅・安謝・天久、小禄村(現:那覇市)具志、宜野湾村(現:宜野湾市)伊佐浜、伊江村真謝などを基地拡張のため、次々と強制的に接収していきました。

 

戦後の地籍認定のむずかしさ

 

艦砲射撃、空襲、さらには地上戦まで展開された沖縄では、建造物はおろか土地そのものの形が失われてしまった場所も珍しくありませんでした。また、戦後すぐに米軍基地の建設が開始されたため、地域によっては戦前の地形をとどめていないというケースもありました。

 

空爆と艦砲射撃による火災の様子。

空爆と艦砲射撃による火災の様子(沖縄県公文書館所蔵)。

 

さらに、土地の境界線を示す標識をはじめ、公簿や公図といった土地に関する公的資料がすべて焼失してしまったため、戦前の土地所有状況を確認する方法自体が失われてしまったのです。

こうした状況のなか、1946年2月、米軍政府はまず「土地所有権関係資料蒐集に関する件(指令121号)」を発布し、土地所有権認定のための調査・準備作業を開始させました。そのうえで、1950年4月には「土地所有権証明(布告36号)」を発布し、土地申請者に対し「所有証明書」を交付。新たに作成された地図と土地台帳が各市町村に完備されることになりました。

とはいえ、作業は公的資料がほとんどない状態で行われたものであり、本来ならば土地調査に立ち会うべき所有者が一家全滅あるいは行方不明のため不在、または疎開・出征先から帰還していないというケースも多く、所有者不明のままの土地もまだ相当数ありました。加えて、技術者や専門器具も不足していたため、測量自体の内容も不完全なものでした。

 

米軍占領後の収容所内での生活風景。

廃墟と化した収容所内での生活風景(沖縄県公文書館所蔵)。

 

また当時、米軍基地の敷地内は完全に立入禁止であり、接収されたエリアの土地調査は事実上不可能でした。そのため最終的な地籍の確定には、本土復帰によって米軍のすべての布告・指令などの法的効力が停止するのを待つ必要がありました(実際には、復帰したからといってすべての土地の所有者が判明したわけではなく、所有者が不明のまま現在にいたる土地も数多く存在しております)。

 

はじめての軍用地料の支払い

 

1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効により、沖縄は本土から分断され米軍の施政権下に置かれました。同時に、戦時から平時へと移行したことにより、米軍側としてはハーグ陸戦条約を根拠とする「軍用地の使用権原」を失うことになりました。

当然、そのままでは基地の使用に支障が出るため、米軍政府は施政権に基づいて布告・布令を次々と発布。軍用地使用についての法的追認を行なったうえで、基地の継続使用やさらなる土地の新規接収を進めていこうと考えたのです。

 

琉球大学で行われた琉球政府創立式典の様子。

1952年4月、米軍主導の下で琉球政府が設立されました(沖縄県公文書館所蔵)。

 

1952年11月、はじめに米軍は「契約権について(布令91号)」を発布し、琉球政府と個々の地主との間で賃貸借契約を締結させ、さらにそれを米軍政府に転貸することで土地所有者の合意を得ようとしました。

しかしながら、契約期間が20年間と長く、使用料も坪あたり平均2円16銭とあまりに安かったため、応じる者はほとんどいませんでした。当時、コカコーラが1本10円の時代ですから、この契約がいかに地主側にとって不利なものであったか、お分かりいただけるかと思います。

このように布令91号による懐柔策は失敗に終わったわけですが、米軍はさらに1953年3月23日に「1950年7月1日から1952年4月27日に至るまで米国政府によって使用された琉球人私有地の賃貸契約の締結及び借地料の支払い履行権限(布令105号)」を発布。これは、先の布令91号にあった賃貸借契約とは別に地代のみを支払うことを命じたもので、1950年7月1日現在の地料評価額の6%にて算定されました。

こうして1953年の3月30日、はじめて軍用地使用料が行政府に届くことになるのですが、実際のところは坪あたり平均1円10銭という、まさに涙金そのものの金額でした。

 

銃剣とブルドーザー

 

米軍はさらなる基地拡充を目指し、1953年4月に「土地収用令(布令109号)」を公布。武装兵に守られたブルドーザーを導入し、真和志村・小禄村・宜野湾村・伊江村など、県内各地の土地を次々と強制収用していきました。

こうした強引な姿勢は「銃剣とブルドーザー」と激しく批判され、次第に沖縄全土を巻き込んだ反対運動へと発展。時の立法院においても、同布令の廃止が満場一致で決議されることとなりました。が、しかしながら、米国民政府側は「自由を守るための基地は必要」とこれを拒否。同布令が撤回されることはありませんでした。

 

米軍によって強制接収された宜野湾・伊佐浜地区の様子。「金は一年土地は万年」の幟も。

米軍によって強制接収された宜野湾村伊佐浜地区の様子(沖縄県公文書館所蔵)。

 

賃借権の既成事実化

 

軍用地の使用についての法的根拠を依然として欠いていた米軍は、さらに1953年12月、最終的な手段として「軍用地内における不動産の使用に対する補償(布告26号)」を公布。いわゆる暗黙の合意「黙契(もっけい)」による賃借権の成立を一方的に宣言することによって、軍用地の使用を既成事実化することに成功しました。

ところが、この布告には「賃借料に不満があれば琉球列島米国土地収用委員会に訴願ができる。同委員会において審理された裁定額は最終的であり、永久に双方を拘束する」という条項が付されていたため、地主たちからは否定的な声が多くあがりました。

というのも、「土地収用委員会」という組織自体が米軍人・軍属のみで構成されており、訴願をしたところで結局は地主に不利な裁定が下され、不当に安い借地料を押しつけられるのではないかという懸念があったからです。

このように、この頃から次第に「軍用地料の是正」が争点化していくわけですが、こうした問題の解決に向けて重要な役割を担ったのが、1953年6月に発足したばかりの「市町村土地特別委員連合会(通称:土地連)」でした。

今日の「沖縄県軍用地等地主会連合会」の前身であるこの組織は、軍用地問題の円満かつ適正な解決ならびに地主の財産保護を目的に設立され、県民の先頭に立って軍用地料の請求交渉活動をけん引。発足から13年間以上も会長を務めた桑江朝幸氏は、その功績から「ミスター軍用地」とも呼ばれました。

 

次回ブログへと続きます。

 

今回のブログでは、1940~50年代前半の軍用地の歴史について、できるだけ分かりやすくご紹介させていただいたつもりですが、いかがでしたでしょうか。

次回は続編ということで、その後いかにして毎年の年間賃借料の支払いを米軍に認めさせていったのか。また、土地闘争をけん引した「市町村土地特別委員連合会(土地連)」、さらにはその組織の中で中心人物であった故桑江朝幸氏について、くわしくご紹介していければと思います。

それではまた、次回のブログをお楽しみに!

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